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不妊治療 保険診療

気になるキーワード「不妊治療」#05

保険適用で変わった不妊治療、この先のために考えておきたい「制度のズレ」とは

2022年4月の不妊治療保険適用から約3年が経過しました。この制度は、経済的負担の軽減、治療の質の標準化、そして少子化対策としての受診環境整備を主な目的とし、これにより患者さんの年齢層が下がるなど、受診のハードルは大きく低下し、一定の成果を上げています。
一方で、臨床現場は新たな課題に直面しています。それは、全国一律のルールで運用される「保険診療」と、患者さん一人ひとりの体の状態に合わせた「最適な医療」との間に生じている、小さくない「ズレ」です。
本記事では、桜十字ウィメンズクリニック渋谷・渡邊倫子院長へのインタビューを通じ、保険適用後の医療現場が直面している構造的な課題を掘り下げます。

超音波検査は「月3回」では足りない? 検査回数制限が生むジレンマ

保険適用から3年が経ち、臨床現場では当初想定されなかった「制度と実態のズレ」が徐々に顕在化しています。その典型例が、検査回数の制限です。
現在の保険診療のルールでは、排卵誘発(薬で卵子を育てる治療)における超音波検査は「月3回」が目安とされています。
けれども、実際の体外受精(採卵周期)では、そう単純にはいきません。卵胞(卵子が入った袋)は1日で急激に成長することもあります。タイミングを少しでも見誤ると、採卵前に排卵してしまって治療が中止になったり、逆に薬が効きすぎて「卵巣過剰刺激症候群(OHSS)※1」という重い副作用が出たりするリスクがあるからです。そのため本来であれば、卵胞の大きさを測る「超音波検査」と、卵子の成熟度などを数値で見る「血液検査」をセットにして、数日おきに頻回に行うのが、安全かつベストなタイミングで採卵を行うのに必要です。しかし、必要な検査であっても、回数を超えれば保険請求ができません。その結果、施設側がコストを持ち出し(赤字)で検査を行うか、あるいは決められた回数内に収めるために検査を絞らざるを得ないという選択を迫られています。

「これはおそらく、タイミング法や人工授精といった、それほど頻繁なチェックを必要としない治療の基準をベースに、十分な議論なしに急ごしらえで作られたルールではないかと推測されます。しかし、細かなモニタリングが不可欠な体外受精の現場の実情とは、明らかにそぐわないのです」(渡邊先生)

※1 編集部注:排卵誘発剤によって卵巣が過剰に刺激され、腫れ上がってしまう状態。腹痛やお腹の張りなどの症状が出る。

「若いうちに貯卵したい」が叶わない――将来を見据えた選択の難しさ

不妊治療 卵子凍結 貯卵
photo: PIXTA

もう一つ、臨床現場で大きなジレンマとなっているのが、第2子以降を見据えた「貯卵(ちょらん=胚の貯蓄)」の制限です。自費診療の時代であれば、若くて妊娠しやすい時期に複数回の採卵を行い、将来の第2子・第3子のために良好な受精卵(胚)を凍結保存しておく、という戦略が可能でした。しかし、保険診療では「凍結保存された胚がある場合、それをすべて移植しなければ、次の採卵に進めない」というルールがあります。

「第1子の治療中に、『将来のために受精卵を貯めておきたい』と希望される患者さんは少なくありません。最近は32〜33歳という若い患者さんが増えているため、なおさらです。しかし、保険を使う以上その希望は叶いません。医学的には、若いうちに採取した卵子(受精卵)を確保しておくと、生涯にわたって子どもを授かる確率を高めることにつながりますが、制度がその選択肢を阻んでいるのです」(渡邊先生)

このルールは、単に治療効率の問題にとどまりません。「今は仕事が忙しいから、採卵だけ済ませて移植は後にしたい」「育休中に第2子分の採卵をしておきたい」といった、患者さんのキャリアやライフプランニングそのものに制約を与えてしまっている側面があります。現状の保険診療のルールは「今、子どもが欲しい」というニーズには応えていますが、「将来の家族計画」まではカバーしきれていないのが現状です。

流産リスクを減らすPGT-A、なぜ使いづらいのか

着床前胚異数性検査(PGT-A)の取り扱いも、現場の悩みの種です。PGT-Aとは、受精卵の染色体の数を調べ、流産のリスクを減らすための検査です。以前は、日本産科婦人科学会の臨床研究として行われていたため、「2回以上の流産」や「2回以上の体外受精の不成功」といった厳しい条件を満たした方しか受けることができませんでした。また、実施できる医療機関も限られていました。日本産科婦人科学会の見解改定により、検査の対象となる条件は緩和されましたが、保険診療との併用には依然として高いハードルが存在します。
最大の問題は「混合診療の禁止」というルールに抵触することです。日本の医療では、同一の疾患や一連の治療に対して、保険診療と自費診療(保険適用外の診療)を混ぜて行うことが原則禁止されています。PGT-Aは国の認めた「先進医療」で、実施できる施設や対象となる患者さんの条件(流産回数など)が厳しく決められています。条件を満たして先進医療として行う場合は保険診療との併用が可能ですが、条件を満たさずに実施する場合は「自費診療」となり、 本来なら保険が適用される診察や薬剤料なども含めた一連の治療すべてが全額自己負担となってしまいます。

「学会からは『35歳以上なら、過去に流産経験がなくても初回からPGT-Aを考慮してもよい』といった見解が出されました。しかし、実際に患者さんがそれを選ぶかというと、コストの壁に阻まれます。結局、『まずは保険でやってみます』と標準治療を選び、流産を繰り返してから初めてPGT-Aを検討するという、従来通りのフローにならざるを得ない現状があります」(渡邊先生)

また、子宮内の環境を調べる「慢性子宮内膜炎(CD138)検査※2」など、臨床的に意味があるとされている検査であっても、保険収載されていないものは実施が難しいという問題もあります。現状では「医学的に良いと思われること」と「保険でできること」の間に線引きがあり、現場の医師は、その狭間で最適な提案を模索しなければならないというジレンマを抱えています。

※2 編集部注: 子宮内膜に慢性的な炎症が起きていないかを調べる検査。炎症があると受精卵が着床しにくくなることがあり、陽性の場合は抗生物質などで治療を行う。

「保険があるから」と標準治療に「ステップダウン」するという選択

保険適用は、患者さんの行動や心理に、従来とは異なる変化をもたらしています。その一つが、高度な自費診療から保険診療への「ステップダウン」という現象です。

「以前であれば、自費で数十万円かかるオプション検査を『妊娠への近道になるなら』と積極的に選択していたような層が、『保険を使いたいから』という理由であえて手放し、保険適用の治療を選択し直すケースが見られます。通常は保険診療で結果が出なかった場合、高度な治療へと『ステップアップ』していくものですが、その反対なので『ステップダウン』と呼んでいます」(渡邊先生)

また、不妊治療に対する熱意も変わってきているようです。自費時代は、高額な費用をかけている分、何度も挑戦を重ねる患者さんが多くいました。対して現在は、若い患者さんが増えたこともあり、「保険の範囲内でまずは試してみて、自分たちに合った選択肢を見極める」という、冷静で計画的な判断をする患者さんが増えているといいます。

「以前は治療を乗り越え、赤ちゃんを授かるために、医師と患者さんが『一緒に頑張りましょう』と二人三脚で歩むような熱量がありました。今は、制度というレールに乗って計画的に進める側面が強くなり、患者さんが自分のペースで治療と向き合えるようになったとも言えます」(渡邊先生)

経済的なハードルが下がったことで治療が身近になった反面、その向き合い方は以前よりも合理的かつシステマチックなものへと変質しつつあるのかもしれません。

不妊治療 ステップアップ ステップダウン
photo: PIXTA

治療を受けた子どもたちは元気に育っている? 欠落している「長期的予後」の視点

さらに渡邊先生が強く警鐘を鳴らすのが、データの検証不足です。保険適用によって治療件数は増えましたが、その結果をどう評価するかという視点が、日本にはまだ足りていません。

「日本では、不妊治療の保険適用が少子化対策として実際にどれだけの効果を上げているのか、そして何より、体外受精などで生まれた子どもたちの長期的予後(将来の健康状態)がどうなっているのか、という検証が決定的に不足しています」(渡邊先生)

イギリスや北欧諸国では、国レベルのデータベースで出生児の健康状態を成人期まで追跡調査する仕組みが整っています。しかし日本には、個人の同意に依存しない大規模な追跡システムが存在しません。

「若い患者さんが増え、治療を受ける方が増えている今だからこそ、将来的に『実はこんなリスクがありました』と後出しにならないよう、国主導でしっかりとした追跡調査を行うべきです」(渡邊先生)

現場の声を、次の制度改正へ

保険適用から3年。「不妊治療を誰もが受けられるものにする」という「量」の拡大フェーズを経て、日本の生殖医療は今、その「質」をどう維持し、制度をどう最適化していくかというフェーズに入ったといえるでしょう。
画一的な診療ルールの中で、いかに医学的に正しく、かつ患者さん個人の人生に寄り添った医療を提供していくか。現場の医師たちは、制度と現実の「ズレ」に悩みながらも、目の前の患者さんのために最適解を探し続けています。この現場の声が次の制度改正に届き、検査回数の見直し、ライフプラン支援の拡充、データに基づく制度改善など、医学的妥当性と患者さんの選択肢が両立するシステムへと進化することが期待されます。

 

【取材協力】
渡邊 倫子
筑波大学医学専門学群 卒業。筑波大学附属病院、木場公園クリニック、山王病院リプロダクション・婦人科内視鏡治療センター、オーク銀座レディースクリニックを経て、2025年4月桜十字ウィメンズクリニック院長に就任。卵子凍結や体外受精や胚移植などの高度生殖医療補助技術のみならず、子宮筋腫や子宮内膜症などの内視鏡手術や漢方治療、男性不妊についても積極的に知見を深め、「妊娠で力尽きない」不妊治療を目指して日々診療を続けている。日本専門医機構認定産婦人科専門医。日本生殖医学会認定生殖医療専門医・指導医

 

山本尚恵
医療ライター。東京都出身。PR会社、マーケティングリサーチ会社、モバイルコンテンツ制作会社を経て、2009年8月より独立。各種Webメディアや雑誌、書籍にて記事を執筆するうち、医療分野に興味を持ち、医療と医療情報の発信リテラシーを学び、医療ライターに。得意分野はウイメンズヘルス全般と漢方薬。趣味は野球観戦。好きな山田は山田哲人、好きな燕はつば九郎なヤクルトスワローズファン。左投げ左打ち。阿波踊りが特技。

この記事の監修医師

院長

渡邊倫子先生

筑波大学医学専門学群 卒業。筑波大学附属病院、木場公園クリニック、山王病院リプロダクション・婦人科内視鏡治療センター、オーク銀座レディースクリニックを経て、2025年4月桜十字ウィメンズクリニック院長に就任。卵子凍結や体外受精や胚移植などの高度生殖医療補助技術のみならず、子宮筋腫や子宮内膜症などの内視鏡手術や漢方治療、男性不妊についても積極的に知見を深め、「妊娠で力尽きない」不妊治療を目指して日々診療を続けている。日本専門医機構認定産婦人科専門医。日本生殖医学会認定生殖医療専門医・指導医

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