山田ノジルのドラマレビュー #7 『ファーストクライ』第7話
なぜ「母親」ばかりが裁かれるのか?~消えた父親と“母子密着”の呪縛~
ドラマ『ファーストクライ』第7話は、母親への恨みが詰め込まれた回でした。母親に捨てられた過去を持つ妊婦を支援することになった、コインロッカーベビーな主人公。重なり合う過去によって、物語が加速していくような、スリリングな展開でした。
妊婦に至っては、自分を捨てた母親が実は近場に住んでいて、別の家庭を持っていたという、あるあるながらも「そうあって欲しくなかった!」という悲しみの嵐が吹き荒れます。
『ファーストクライ』の登場人物のように、幼少期に母親に捨てられるなど、養育者と十分な愛着関係が形成されないと、愛着障害という、情緒や対人関係の困難が生じることがあります。
生きづらさを抱えながらも、人生を模索する姿は力強いものですが、母の愛を渇望し、母への恨みも同時に抱く葛藤――。母という存在に人生を狂わされ、その傷を抱えたまま大人になり、そして今度は自分が親になろうとする。毒親ものによく出てくる話でもあります。
さて、この回を見ていて息苦しかったのは、あまりにも当たり前にすべての責任と恨みが「母親」一点に集中させられている点でした。
遺棄事件で裁かれるのは、いつも「母親」

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ニュースやドラマで「育児放棄(ネグレクト)」や「子ども置き去り・遺棄事件」が報じられるとき、罪に問われ、世論から叩かれるのは、決まって「母親」ばかりです。もう、復唱しすぎて、うんざりしますね。はい、皆さまご一緒に
「父親ドコー!!!!」(クソデカボイスで)
妊娠は、ひとりではできません。生物学的に、受精の瞬間には間違いなく父と母の双方が存在しているはずなのに、いざ子どもが産まれ、あるいは育児の段階になり、そして何らかの破綻が起きた途端、父親の姿がきれいさっぱり蒸発するのはなんでなのでしょう。
ドラマの中でも、そして現実の社会でも、なぜか「父親不在」のまま物語(あるいは事件)が進んでいくケースが多いことに悲しさを覚えます。子どもに寄り添い、世話をするのは母親の役目。そうした意識があるからこそ、子どももまた、「母親から与えられるべき愛情が得られなかった」と責めてしまうのでしょう。
「ワンオペ」の時代になっても変わらない視線

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世間では「ワンオペ育児」という言葉がすっかり定着し、育児の負担が母親一人に偏っている現状への問題意識は共有されるようになりました。男性の育児休暇が当たり前の企業も、増えてきたと聞きます。
しかし、いざ「何かトラブルが起きたとき」「家庭が機能不全に陥ったとき」「子どもが救われなかったとき」、社会の向けられる視線は相変わらず冷酷であるのを感じます。「結局は、母親の育て方が悪かったのではないか」「母親なのに、なぜ守れなかったのか」と。
なんだかんだと、「子どものケアは母が担うもの」という根深い呪いは、なかなか揺らがないように思えます。そしてそのケアや愛情は、余裕があってこその産物であることも強調したいところです。
作中で「お母さんにしてほしかったこと」という話が出てきますが、それらは生活に余裕がないと、正直難しいかもしれません。つまりは、子どもを捨てざるをえない状況に追い込んだ、社会の問題も取り上げられるべきでしょう。
精子提供の夫が葛藤の末に見出した「救い」

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一方で、今話が単なる絶望で終わらなかったのは、もう一組の夫婦の存在です。第三者からの精子提供による妊娠をめぐり、血縁の不在に対して「自分は父親になれるのか」と激しく葛藤する夫の姿が描かれていました。
生物学上血のつながらない子どもを育てることへの戸惑い、そして父親となる実感が持てず、孤独に陥る夫。それでも「父親になる」と覚悟を決め、お産に立ち会うシーンが印象的でした。
育児の葛藤を母親に押し付けるのではなく、父もまた「親になる痛み」を引き受ける。それこそが、母子密着の呪縛を解きほぐすための、王道の道でしょう。ドラマが突きつけた「母子の因縁」の深さに震えつつ、私たちは血のつながりや性別の役割を超え「共に親になる」ことの意味を、もう一度深く考えさせられるのでした。
次回の視聴リンクはこちら。
山田ノジル
フリーライター。女性誌のライターとして美容健康情報を長年取材してきたなかで出会った、科学的根拠のない怪しげな言説に注目。怪しげなものにハマった体験談を中心に、取材・連載を続けている。著書『呪われ女子に、なっていませんか? 本当は恐ろしい子宮系スピリチュアル』(KKベストセラーズ)ほか、マンガ原作や編集協力など多数の作品がある。 X:@YamadaNojiru















