
シリーズ「産後うつ」 #01
「産後うつ」って、なんだろう?「幽霊でもいいから、誰かいてほしかった」と感じる産後の孤独
「産後うつ」という言葉を耳にしたことがある方は多いかもしれません。けれど、その実態まで深く理解している人は、まだ決して多くはありません。 「気合が足りない」「母親失格」——そんな根拠のない言葉が、産後うつの苦しみを自己責任にすり替え、母たちを言葉にできない孤独へと追い込んでしまうこともあります。 本記事では、実際に産後うつを経験した熊田梨恵さんの声を通して、その知られざる現実に迫ります。(この記事は全3回の第1回目です)
「赤ちゃんの泣き声が自分を責めるように聞こえる」産後うつの「体感」
「元気な時はカバーできている心の弱い部分が、産後の危機的な状況で、むき出しになる。それが産後うつだと思います」
2015年に第一子を出産後、産後うつを経験した熊田梨恵さんは、当時の状態をそう表現します。医療ジャーナリストでもある熊田さんは、当時のことをご自身のブログに詳細にまとめています。
「女性にとって最も幸せな瞬間」といわれることもある出産ですが、幸せの一方で、深刻な心身の不調を経験する女性もいるのです。
熊田さんが産後、実際に感じた症状には、以下のようなものがありました。
・頭に分厚い霧がかかったようで、簡単な献立も考えられない
・体が鉛のように重く、起き上がるのに1時間かかった
・悲しいなどの感情もなく、何も感じない。心がストーンと空っぽになった感じ
・子どもの泣き声が、自分を責めているように聞こえる
産後うつになると、個人差はあれど、こうした心身の不調が何カ月も続きます。それがどれほど大変なことかは、想像に難くないでしょう。

10人に1人が経験する身近な病気
そもそも、産後の女性の心身は、得てして不安定になりやすいものといえます。
出産でダメージを受けた体、そして妊娠中に大量に分泌されていた女性ホルモン(エストロゲン)が激減するといった変化に、目の前の小さな命を育てていかなければならないというプレッシャー。これらが相まって、わけもなくイライラしたり、ふいに涙が止まらなくなったり、人によっては眠れなくなったりすることがあります。こうした症状は「マタニティ・ブルーズ」と呼ばれ、産後数日から2週間程度の女性の半数近くに起こるといわれますが、大抵は一過性で自然に回復します。
しかし、「産後うつ」はこれとはまったく違います。マタニティ・ブルーズが落ち着くはずの産後2週間から3カ月以内に発症することが多く、心と体の状態だけでなく、世界の感じ方そのものが根こそぎ変容してしまうような状態が、その先、数カ月以上にわたって続きます。症状が進むと衝動的に死を選ぶこともあるため、医療による介入が必要な状態といえます。
国立成育医療研究センターの調査※では、産後1年未満の母親の約10%に「産後うつ」のリスクがあることが指摘されています。これは学生時代のクラスに30人いれば2~3人は経験する計算であり、決して「自分ではない誰かがなるもの」ではないのです。
※ Takehara K, Suto M, Kato T: Sci Rep. 2020 Aug 13;10(1):13770. doi: 10.1038/s41598-020-70727-2.
「条件が揃いすぎていた」熊田さんが産後うつになった要因
産後うつになる原因はさまざまで、複数の要因がそろうと発症リスクも高まると考えられています。「私は産後うつになる条件が揃いすぎていた」と話す熊田さんに、当時を振り返り、思い当たる要因を挙げてもらいました。
自覚の遅れと受診への抵抗感
「最もつらかったのは産後2~3カ月でしたが、この時期には『自身の精神状態が不安定だ』という自覚がありませんでした。これは多くの産後うつ経験者に共通する特徴で、自分の抱えるつらさを『単なる自分の弱さだ』と捉えてしまいがちです。当時は産後うつという言葉も知らず、病院を受診することにも抵抗がありました。『しんどいと訴えてもお医者さんも看護師さんも困るだろうし、病院に行っても迷惑をかけるだけだろうな』という思いもありましたね」
育児によるストレスと社会からの孤立感
「子どもはこちらの思った通りに動いてくれるわけではなく、とにかくコントロール不能な要素が多いものです。そんな相手と24時間体制で向き合うのは、想像以上の負担でした。子どもと2人きりで過ごす時間は、社会とのつながりが途絶えやすく、孤立感が強くなりがちです。特に私の場合は、夫の仕事の都合で、知り合いのいない慣れない土地で子育てをしていたため、孤立感は人一倍強かったと思います」
周囲への遠慮と支援活用の難しさ
「『人様に迷惑をかけないように』と育てられたこともあり、周囲にSOSをうまく出すことができませんでした。『自分のことは自分で何とかしなければ』という気持ちが強く、それも精神不安を悪化させた要因の一つだったと思います。つながりを作ろうと、地域の子育てサロンや行政のイベントにも参加してみましたが、すでに出来上がっていたコミュニティに入っていくのが難しく、さまざまな支援制度があっても、それを有効活用することの困難さを実感しました」
「幽霊でもいいから、誰かにいてほしい」深刻な孤独感
数ある要因の中でも、最もつらく、大きな影響を及ぼしたのが「孤独感」だったと熊田さんはいいます。彼女の当時の状況は、以下の通りでした。
・自らの両親は遠方在住かつ、ともに要介護状態
・夫の両親も遠方在住で頼れない
・妊娠までは遠距離婚。妊娠を機に、夫が住んでいた大阪に引っ越したものの、熊田さんにとっては縁もゆかりもない土地へ移住したため、近所に気軽に頼れる友人がいない
こうした状況で、日々、子どもと2人きりで過ごすうちに孤独感が募っていきました。
「夜になると夫は帰宅していましたが、お互いに疲れ切った状況で、気持ちを受け止める余裕はとても持てませんでした。そのため、私の孤独感は日に日に強くなっていきました。それこそ『幽霊でもいいから誰かそばにいてほしい』と感じるほどでした」
友人が遊びに来ることもありましたが、彼らが帰ってしまうと、再び孤独感にさいなまれたといいます。
「ブログにも書いていますが、遊びに来てくれた友人が帰る時、表面上は平気な顔を装っていても、心の中ではまた孤独になってしまうことをおそれて、『帰らないで!』と泣いてすがりたい気持ちでいっぱいでした。当時、そうした本音を見せられていたら、状況は変わっていたのかもしれませんが、あの時は『そんなことを言われても迷惑だろうな』と思い込み、自分の気持ちにふたをしていました」
このような状況が続いた結果、熊田さんの心身の不調は大きく悪化し、日常生活全般が困難になるところまで追い詰められました。一時はほぼ寝たきりで外出もできず、ベッドから体を起こそうにも力が入らず、トイレすらままならない時もあったといいます。噛んだり飲み込んだりする力も入らなかったため、食事もとれず、胃ろうに使われる流動食でなんとか栄養をとっていました。
産後うつは「特別な病気」ではない
熊田さんほど症状が悪化するケースは多くないかもしれません。しかし、「私にも同じような気持ちになったことがある」と共感する人は少なくないはずです。ほんの少しボタンを掛け違えていたら、誰しもが同じような状況になっていた可能性があります。
「産後うつ」というと、何か特別な病気のように感じる人もいるでしょう。しかし、決して特別な人だけがなる病気ではなく、ホルモンバランスの変化、睡眠不足、社会からの孤立、育児への不安など、さまざまな要因が重なることで誰にでも起こりうる心の状態変化だと考えられます。
昨今では、男性の産後うつにも注目が集まっています。出産をしていない男性がなぜ、と思う人もいるかもしれませんが、産後うつを「母親」という特定の属性だけに宿るものではなく、過酷な状況に置かれた一人の「人間」としての自然な反応と捉えれば、決して不思議なことではないでしょう。
ここで、冒頭に記した熊田さんのコメントを、あらためてご紹介します。
「産後うつは、人間が心身ともに極度に弱った時に、元気な時にはカバーできていた心の弱い部分が、むき出しになった状態といえます。産後は人生で最も体が危機的な状況になるので、それが特に起こりやすくなるのでしょう。出産以外でも、別の病気で追い詰められたり、お金がなくて切羽詰まったりした時に、みんな同じような状態になることがあるはずで、まったく特別なことではないと思います」
産後うつを特別視することは、当事者をより一層孤立させてしまう危険性をはらんでいます。重要なのは、それを「特別な病気」として恐れるのではなく、「誰にでも起こりうる自然な反応」として理解し、適切な支援を求めることです。
熊田さんはその後、適切な診断と治療により、起き上がることもできなかった状況から回復しました。今この記事を読んでいる方やそのご家族が産後うつに苦しんでいたとしても、適切なサポートがあれば、きっと回復への道筋を見つけることができるでしょう。
次回の記事では、熊田さんの回復までの体験を通して、産後うつの具体的な対策について、本人と周囲ができることを詳しく解説していきます。
※この記事は、産後うつの当事者である熊田梨恵さんへのインタビューを基に作成されました。個人の体験談であり、症状や経過には個人差があります。心配な症状がある場合は、必ず専門医にご相談ください。
【参考文献】
・"マタニティブルーズについて教えてください". 日本産婦人科医会 (参照 2025-06-15)
・Takehara K, Suto M, Kato T: Sci Rep. 2020 Aug 13;10(1):13770.
〈取材協力者プロフィール〉
熊田梨恵(くまだ・りえ)
NPO法人パブリックプレス代表理事。2015年に第一子を出産後、産後うつを経験。これをきっかけに自身の抱えていた心の傷と向き合い、現在は大阪で女性向け自助グループ運営。トラウマケアのための一般向け講座も行う。ふだんは医療ライター。著書に『救児の人々』『胃ろうとシュークリーム』など。
山本尚恵
医療ライター。東京都出身。PR会社、マーケティングリサーチ会社、モバイルコンテンツ制作会社を経て、2009年8月より独立。各種Webメディアや雑誌、書籍にて記事を執筆するうち、医療分野に興味を持ち、医療と医療情報の発信リテラシーを学び、医療ライターに。得意分野はウイメンズヘルス全般と漢方薬。趣味は野球観戦。好きな山田は山田哲人、好きな燕はつば九郎なヤクルトスワローズファン。左投げ左打ち。阿波踊りが特技。