母乳神話に呪われているのは、どっち?——授乳ケープ炎上の正体
「授乳ケープをしてカフェで授乳していたら、店員に注意された」
SNSでそんな投稿が大きな話題になりました。理由は「他の客もいるから遠慮してほしい」とのこと。周りへ配慮するための授乳ケープなのに、これ以上どうしろというのでしょう。
「公園で遊ぶ子どもの声がうるさい」というクレーム以上の、異様な空気を感じざるを得ません。「そもそも赤ちゃんをカフェに連れてくるな」という声も出ていたようです。少子化が過ぎて、赤子が異物に見える世の中になってきているのかもしれませんね。
さてこの騒動を、「また母乳神話に縛られた母親が無理をしている」と見る人がいるでしょうか。しかし、現実は違うように思えます。
2024年にベビー用品大手であるピジョンが行った調査※によると、ここ10年で完全母乳育児率は、46%から21%に低下しているとの結果でした。コロナ禍の影響も受けつつ、共働きやチーム育児、液体ミルクの普及に伴い、半数以上が粉ミルクや混合栄養を賢く、主体的に選択する時代となっているのです。
今の母親たちは基本的に、かつての「母乳神話の呪い」からは、だいぶ自由になりつつあります(自然派周辺では相変わらず母乳が主流ですが)。
※「授乳期母子状況調査」ピジョン にっこり授乳期研究会調べ(調査期間:2024年10月2日~10月7日)https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000206.000048454.html

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では、なぜ授乳ケープは炎上するのか。たたく側の中には、「母親なら母乳をあげるのが自然だが、その生々しい身体は公共の場から隠せ、家庭に引きこもれ」という古い支配欲が残っているからでは。
「母乳神話」や「理想の母親像」に今なお呪われているのは、たたく側の人たち。母親たちが「母乳もミルクも選べる自由」を手に入れ、一歩前へ進んでいるにもかかわらず、周囲の意識が追いついていないため、そのギャップが「授乳ケープへのバッシング」という理不尽な形で噴出しているように見えます。
アメリカやイギリスなど多くの国では、公共の場での授乳は、法律によって保護されています。一方日本では、国土交通省によって、ハード面の整備(授乳室の設置など)が進められる方針です。設備が充実するのはありがたい反面、「授乳は隠れた場所でするもの」という同調圧力がさらに強まる気配もさらに色濃くなっていきそう。
さらに「母乳育児は親のエゴ」なんて意味の分からない批判まであったようです。しかしかつては母乳でなくてはならぬ!という主張が出回っていた時代もあり、もはや「どっちやねん」という気持ちです。
母乳を与えれば家でやれと行動を制限され、粉ミルクをあたえればボロクソにディスられる。困ったものです。ここでちょっと、かつての「批判」を見ていただきたいと思います。
粉ミルクの「安全神話」が崩壊した時代
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まずは粉ミルクブームから、母乳育児が推奨された時代を見ていきましょう。そもそも日本では、明治から戦後にかけて「粉ミルク=衛生的で先進的」という憧れが広がりました。昭和の高度経済成長期には猛烈なマーケティングも重なり、一時は粉ミルクが育児の主流になります。
ところが、状況が一変。「森永ヒ素ミルク事件」や、途上国での粉ミルクトラブルが相次ぎ、粉ミルクの安全神話は崩壊。WHO(世界保健機関)が主導する形で、世界は一気に「母乳育児への回帰」へと舵を切りました。
そんな時代の真っただ中、1984年に出版されたのが『母乳は愛のメッセージ』(山陽新聞社)。著者は、当時の新生児・未熟児医療の権威であり、母乳育児推進の神様とも言われた故・山内逸郎医師です。
先に言っておくと、当時の育児書は「権威のある先生が大上段から高説を垂れる」のが普通である時代です。ですから山内医師だけが特別おかしなトーンだったわけではありません。これもまた「時代のエッセンス」として、まずは味わってみてください。
さて、本題。同書では、母乳の重要性をアピールするために、今では考えられないような強烈な表現が飛び出します。
「母乳でなければ、人の心が形成されない」
粉ミルクで育った全世代が、思わず真顔になるレベルのパワーワード。
「直接おっぱいを飲まないと、愛情が湧いてこない」
「哺乳瓶で牛の乳を飲んでいては、人の心は作られない」
「母乳を飲ませる努力と、飲む努力。この強烈なふれ合いで、人の心が赤ちゃんに入っていく」
なんという情緒的、かつ精神論! 1983年に発刊された『母乳』(山本高治郎著)でも、赤ちゃんは母乳育児によって「人の情けを学び取る」と書かれていました。

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このほかにも、ちまたでは「粉ミルクは空き缶の味がするから、心が冷たい子になる」 だの「粉ミルクが非行の原因」とかさんざんな説があったようですね。粉ミルクが開発されていなかった時代も、未成年者の凶悪事件っていっぱいあったと思いますけど……?
「愛情」や「人の心」という部分は、今の時代なら「愛情ホルモン=オキシトシン」の効果として科学的に解説されるところでしょう。ただ、オキシトシンが一般に知られるようになるのは、ここからさらに20年ほど後の話。
とはいえ、たとえオキシトシンを引き合いに出したとしても、ここまで粉ミルクをディスる必要はどこにもありません。そもそも、母子のスキンシップなぞ、抱っこでもお風呂でも、授乳以外の場面でいくらでもできる話ですから。なんという言いがかり。
出た!「母乳育ちは目の輝きが違う」論

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私自身は2015年に出産しましたが、そのころよく聞いたのはこんなフレーズです。
「母乳育ちの赤ちゃんは、目の輝きが違う」
「何言ってんだ?」と耳を疑いますよね。しかし、母乳推進運動においてお約束のキメ言葉なのです。
おそらくこれは、昭和30年代の「粉ミルク全盛期」に、クッションなどで哺乳瓶を固定して赤ちゃんに吸わせ、母親はその場を離れる「置きミルク」のような育児が一部で行われていたことに関係しています(今でも双子育児などでは見かける手法ですが、窒息や中耳炎、むし歯のリスクから、CDCなどは推奨していません。とはいえ、やむを得ない事情がある場合も多く、責められるべきものではありません)。
それに対し、母乳育児は「必ず抱っこして、至近距離で目と目を合わせる」ことになります。その結果、赤ちゃんの表情が豊かになったり、追視(物を目で追うこと)が発達したりする。その様子を、当時の推進派が「目の輝きが違う!」と鮮烈に表現したのが始まりなのでしょう。
しかし、そうした説明をすっ飛ばして、このフレーズだけを聞かされるシーンが、多々ありました。「目の輝きが!」と言われても…と戸惑わない人、いるんですか?
ちなみに、最近話題の「授乳ケープ」を使って目元を隠して授乳していたら、やっぱり赤ちゃんの目の輝きは失われてしまうのでしょうか。
伝説の「ながら授乳はけしからん」罪
授乳といえば「ながら授乳」へのバッシングも、懐かしい思い出です。出産当時は「スマホ育児」が目の敵にされており、授乳中にスマホをいじるなんて母親失格、という風潮がありました。「理想の授乳とは、赤ちゃんの目をじっと見つめ、やさしく語りかけながらおっぱいを飲ませるべし」なんだとか。
これも先ほどの「目の輝き(追視)」と同じロジックなのでしょう。3時間おきに繰り返される授乳、しかも我が子は定量飲むのに1時間はかかる子で……。毎回全集中の呼吸(古い)で挑んでいたら、母親の目が先に濁ってしまう。
当時、そのお説教を聞きながら、私はシンプルにこう思いました。
「食事中、ずっと目の前で親からガン見され続けたら、赤ちゃん側も普通に鬱陶しい(うっとうしい)んじゃないの……?」
これまでさまざまな出産・育児エピソードを取材してきましたが、母乳をめぐるトンデモ話は本当に尽きません。「努力が足りないから母乳が出ない」「母乳で育てたほうが情緒が安定する」「母乳を与えられない子どもは満たされない」。なんという理不尽な言いがかり。
さて授乳ケープはマナー違反、個室でやれという話も、自分の目には同列です。確実に、育児の足を無責任にひっぱっているのですから。母親を家庭に縛り付け、公共空間からコントロールしたいという支配欲は、形を変えた母乳神話だと言えるでしょう。
山田ノジル
フリーライター。女性誌のライターとして美容健康情報を長年取材してきたなかで出会った、科学的根拠のない怪しげな言説に注目。怪しげなものにハマった体験談を中心に、取材・連載を続けている。著書『呪われ女子に、なっていませんか? 本当は恐ろしい子宮系スピリチュアル』(KKベストセラーズ)ほか、マンガ原作や編集協力など多数の作品がある。 X:@YamadaNojiru
















