「私らしい」一歩を踏み出すために 知っておきたい不妊治療の基本
「赤ちゃんが欲しい」という願いを、私は長年、多くの患者様と分かち合ってきました。不妊治療の専門医として、そして一人の人間として、皆さんが抱える不安や迷いを痛いほど理解しています。
治療を始める前、「私は特別なのだろうか」「周りにはなかなか言えない」と孤独を感じる方もいるかもしれません。しかし不妊治療は、決して特別なことではありません。妊娠という奇跡を、医学の力で少しだけ後押しする、たくさんの選択肢の一つなのです。
最新のデータを見てみましょう。2023年の日本産科婦人科学会の報告では、体外受精(ART:Assisted Reproductive Technology)によって年間約7万人もの赤ちゃんが誕生しています。これは、日本で生まれる約9人に1人がARTによって授かっている計算になります。これは、私が医師になった頃には想像もできなかった数字です。
この数字が示すのは、不妊治療が「ありふれた選択肢」になっているという現実です。一歩踏み出すことに、戸惑いはいりません。この記事では、私たち専門医がどのように妊娠という奇跡を後押ししているのか、「一般不妊治療」と「体外受精(IVF)」の基本を分かりやすく解説します。
ステップ1:自然な妊娠をサポートする「一般不妊治療」
不妊治療を始める際、まず検討されるのが「一般不妊治療」です。これは、可能な限り自然な妊娠の仕組みを活かしながら、妊娠の確率を高める方法です。主にタイミング法と人工授精(IUI)の二つがあります。
A. タイミング法
一般不妊治療の中で、最もシンプルで体に負担が少ない方法です。
体の仕組みとして、女性は月に一度、卵巣から卵子が飛び出す「排卵」があり、この排卵の前後が最も妊娠しやすい時期(排卵期)です。タイミング法では、超音波検査やホルモン検査などを使って正確な排卵日を予測し、そのタイミングに合わせて夫婦生活を持つようアドバイスを受けます。
「たかがタイミング法」と思われるかもしれませんが、正確な排卵日を知ることは、妊娠への第一歩として非常に重要です。クリニックで排卵の瞬間を正確に予測することで、ご夫婦の努力を最も効果的にサポートできます。「予測がこんなに正確だとは思いませんでした」という患者様の声も多く聞かれます。
B. 人工授精(IUI:Intrauterine Insemination)
タイミング法でなかなか妊娠に至らない場合や、軽度の男性不妊(精子の運動率が少し低いなど)がある場合に検討されるステップです。
人工授精は、「精子の旅路をショートカットしてあげる」イメージです。排卵のタイミングに合わせて、パートナーから採取した精液から、元気で動きの良い精子だけを選び出し、細いチューブ(カテーテル)を使って子宮の奥に直接注入します。
これにより、精子が子宮頸管(子宮の入り口)を通過する際の障壁を避け、卵子の近くまで届けられるため、受精の確率が上がります。受精自体は、体内で自然に行われるため、自然妊娠に近い治療法と言えます。処置は通常5〜10分程度で終わり、痛みもほとんどありません。
C. 特徴と適応
一般不妊治療は、体への負担や、治療にかかる費用が比較的少ないのが特徴です。主に、不妊の原因が特定できない場合や、軽度の排卵障害、軽度の男性不妊などに用いられます。一般的には、排卵周期や年齢、不妊期間などを考慮しながら、数周期試みてから次のステップに進むことが多くなります。
ステップ2:より確実な妊娠を目指す「体外受精(IVF)」
一般不妊治療を何度か試しても妊娠に至らない場合や、卵管が詰まっている、重度の男性不妊があるなど、原因によっては最初から「体外受精(IVF:In vitro fertilisation)」が推奨されることもあります。体外受精は、生殖補助医療(ART:Assisted Reproductive Technology)と呼ばれる高度な医療技術を用いた治療法です。
体外受精の最大のポイントは、「体の外(体外)で、卵子と精子を受精させる」ことです。
A. 体外受精の基本的な流れ
体外受精は、いくつかのステップを経て妊娠を目指します。
1.排卵誘発:自然な周期では通常1個の卵子しか育ちませんが、体外受精では質の良い卵子を複数得るために、排卵誘発剤(飲み薬や注射)を使って卵巣を刺激し、複数の卵子を育てます。
2.採卵:卵巣で十分に育った卵子を、膣から細い針を刺して体外に取り出します。このとき、局所麻酔や静脈麻酔などの処置を行うことが多いです。
3.受精(体外受精 または 顕微授精):
体外受精(IVF):採取した卵子の入った培養皿に、処理した精子をふりかけ、精子が自力で卵子に入り込む(受精する)のを待ちます。
顕微授精(ICSI:Intracytoplasmic sperm injection):精子の数や運動率が極端に低い場合や、過去に体外受精で受精しなかった場合に選択されます。顕微鏡で確認しながら、医師が一本の精子を卵子に直接注入して受精を助けます。
4.培養:受精してできた受精卵(胚)を、培養器の中で数日間育てます。
5.胚移植:育った胚の中から最も質の良いものを選び、細いチューブ(カテーテル)を使って子宮の中に戻します。
6.判定:胚移植から約1〜2週間後に、血液検査などで妊娠が成立しているかを確認します。
B. 特徴と適応
体外受精は、一般不妊治療に比べて妊娠率が高いことが最大の利点です。特に、卵管の閉塞などによる卵管因子や、重度の男性不妊、そして一般不妊治療で妊娠しなかった原因不明の不妊に対して高い有効性が認められています。
一方で、採卵という手術が必要になるため、身体的な負担が大きくなります。また、治療期間も長く、使用する薬剤も多いため、費用も高額になります(ただし、現在は保険適用されています)。
大切なのは「あなた」と「パートナー」の気持ち

不妊治療は、技術的な進歩によって多くの可能性を開いてきましたが、治療法を選ぶのは、他ならぬあなたとパートナーです。
私は、患者様が治療のステップアップに際して、「もっと早く始めていれば」と後悔する姿を何度も見てきました。特に体外受精は、年齢が上がるほど妊娠率が下がる傾向があるため、いつ治療を始めるか、どの段階に進むかという「決断のタイミング」が非常に重要になります。私たちは、科学的根拠に基づき、最適な道筋を提案しますが、最終的に決めるのはご夫婦です。「なぜ、今、この治療を選ぶのか」を私たちとしっかり話し合い、納得して治療に臨んでほしいと願っています。
A. 治療の選択は「夫婦で」
治療方針は、不妊の原因、女性の年齢、治療の期間や費用、そして何よりもご夫婦の考え方を尊重して決定されます。「いつまで続けるか」「どの治療まで進むか」といった判断は、焦らず、不安な気持ちも正直に話し合いながら、二人で納得して進めていくことが何よりも大切です。
B. 保険適用と費用
不妊治療は以前、全額自己負担となることが多く、費用の面でも大きな負担でした。しかし、2022年4月から、特定の条件を満たした不妊治療(タイミング法、人工授精、体外受精・顕微授精)が公的医療保険の適用となり、経済的な負担が大きく軽減されました。
【終わりに】
治療の開始やステップアップは、決して「特別なこと」ではありません。専門医の力を借りて、妊娠への道を歩み始めた方はたくさんいらっしゃいます。どうぞ、この一歩を、ご自身の幸せのための「前向きな選択」だと捉えてください。私たちは、あなたが希望と光を見つけられるよう、心から応援しています。













